Catégorie : 読解

最近見たフランスの映画

Le week-end dernier, j’ai regardé le film français « Les saveurs du palais » 『大統領の料理人』. Ce film est l’histoire d’une cuisinière périgourdine recrutée afin de préparer les...

Le Mondeの新聞:ラグビーワールドカップ2011の日本代表について

フランスのLe Mondeと言う新聞にはラグビーワールドカップ2011の日本代表についての記事が発行しています。リンク: Bonifié par les joueurs étrangers, le rugby japonais effectue sa mutation フランス語 Magazine ! 大阪のフランス語教室 ルシャポダのブログ。...

中世都市・カルカッソンヌ(Carcassonne)

数あるフランスの観光地の中には、あまりよく知られていないものもあります。カルカッソンヌもそのひとつではないでしょうか。しかし歴史あるこのすばらしい中世都市は一見の価値ありです。 この要塞都市はオード県の川沿いに位置し、3kmにわたる二重の城壁に囲まれています。その中にはコンタル城(château-comtal)や聖ナザレ大聖堂(basilique Saint-Nazaire)といった歴史的建造物があります。 波乱に富んだ歴史 聖 ナザレ大聖堂は1096年に建てられ、城の建設は12世紀に入ってから行われました。 当時、町はトランカヴェル家の支配下にありました。 1208年、法王イノセント3世はこの地に広まっていたカタリ派を討伐するために十字軍を派遣しましたが、トランカヴェル子爵は法王に異端視されていた トゥルーズ伯爵の臣下だったのです。1209年、町は十字軍に占領されました。その後もフランス王国とトゥルーズ伯爵領の争いが続きましたが、1226 年、国王ルイ6世による2度目の十字軍派遣を経て、最終的にフランス王国に統合されました。 13世紀にはルイ9世がアラゴン王国の脅威に備えて2つ目の城壁を作らせました。 今日のカルカッソンヌ 19 世紀、戦略的な意義を失ったこの要塞都市は見捨てられる羽目になりました。人口は激減し、人々はこの中世都市を壊してしまおうと考えたのです。幸いなこと に、地元の名士ジャンピエール・クロ・メレヴェイユ、歴史的建造物の視察官でもあった作家のメリメらの尽力により、町は破壊を免れました。国は建築家ヴィ オレ・ル・デュックに町の再建を任命しました。この事業は彼の死後も続けられ1913年に完了しました。1961年、コンタル城内に博物館が作られました。1997年にはユネスコ世界遺産に登録され、観光地としての注目を集めています。 カルカッソンヌをおすすめする理由 僕 がカルカッソンヌを訪れたのはまだ幼いときでしたが、とても深く印象に残っています。ラングドック地方(Languedoc)にある類まれな史跡。再建を 経て13世紀の頃とは異なっている部分もあるでしょうが、それでもなお見事な姿を見せており、歩くのが楽しめる町だと思います。町に長めに滞在すれば、周 辺地域に足をのばすこともできます。ミディ運河沿いを散歩するもよし、ラングドック地方の絵に描いたような村々や点在する城跡を訪れるもよし。ここにはさらに別の魅力があります。それは料理とワインです!名物料理は数多くありますが、最も有名なのはカスレ(cassoulet:白いんげんとガ チョウ、羊、豚などを煮込んだ料理)です。それに加えてガチョウやアヒルのコンフィ(confit:肉をその脂で煮、その中で保存したもの)、豚すね肉の ハムといった数々のおいしい料理がありますが、これらはやはりコルビエール(Corbiere)など地元のワインとともに味わいたいものです。 Hervé Tisserand...

ジャンヌ・ダルク(1412-1431)

ジャンヌ・ダルクがフランス史を代表する人物のひとりであることは疑いありません。彼女の一生は短かったにも関わらず、国民感情の象徴として用いられるほど深くフランス人の精神に影響を与えました。  歴史的背景  ジャンヌ・ダルクは100年戦争(1337-1453)のさなかに生まれました。この戦争でフランスはイギリス・ブルゴーニュ同盟と対立することになりま した。フランス北部、東部と南西部の一部はイギリス王とその連合軍の支配下にあり、パリまでもがイギリス軍に占領されていました。のちに王となるシャルル 7世(1403-1461)は、ジャンヌ・ダルクがシノン(Chinon)の町で生まれたときにはまだ即位していませんでした。100年戦争の原因としては2つのことが挙げられます。ひとつはイギリス王がフランス王位継承権を求めたこと、もうひとつは羊毛の取引のためフランドル地 方の町を支配しようとしたことです。1412年、軍配はイギリス側に上がっており、戦況を覆すことは不可能かに見えました。 国民的英雄の誕生 ジャンヌ・ダルクは1412年1月6日、ロレーヌ地方のドンレミ(Domrémy)で生まれました。兄弟は兄が3人、姉 が1人でした。ドンレミはロレーヌ公国領内にあった小さな村です。ジャンヌ・ダルクが神の声を聞いたのは13歳の時でした。その声は彼女に敬虔な信徒と なってフランス王国を解放し、王太子シャルルを王位につけるよう求めていました。1428年、ジャンヌ・ダルクは王太子と合流するため村を後にし ましたが、守備隊長ロベール・ド・ボードリクールの力添えで王太子への謁見が認められたのは1年後のことでした。1429年、男物の服を身にまとったジャ ンヌ・ダルクはのちのシャルル7世の前に姿を現しました。聖職者達の審問にかけた後、王太子はジャンヌを小隊の隊長に任命しました。 ジャンヌ・ダルク隊長 最 初の手柄は1429年5月のオルレアン奪回でした。この勝利により軍と民衆の士気は俄然高まりました。オルレアン開放後、村人はジャンヌ・ダルクに“オル レアンの処女”という名をつけました。彼女はその後も数々の戦いに勝利を収め、1429年6月18日のパテの戦いにより決定的にイギリス軍を撃退すること に成功したのです。ジャンヌ・ダルクの活躍によって王太子はランス(Reims)に赴くことができ、1429年7月17日、戴冠式をおこなって正式にフラ ンス国王シャルル7世となりました。戴冠式が済むとジャンヌは一気にパリを奪還しようとしましたが、この試みは失敗しました。シャルル7世はジャンヌにすべての攻撃を止めるだけでなく禁足ま でも命じました。これを退けてジャンヌはコンピエーニュ(Compiègne)までたどり着きますが、そこでブルゴーニュ軍に包囲されてしまいます。脱出 を試みますが、ブルゴーニュ軍に捕らえられ、身代金10000リーヴルと引き換えにイギリス軍の手に引き渡されることとなりました。 英雄の最期 ジャンヌ・ダルクは異端審問裁判のためルーアンへ送られました。裁判長を務めたのはボーヴェの司教ピエール・コションで す。裁判は1431年2月21日に始まりました。異端宣告を受けたジャンヌ・ダルクは同年5月30日、火あぶりの刑に処されました。のちにシャルル7世の 命で裁判の調査が行われ、1456年、ジャンヌ・ダルクはその名誉を回復したのでした。 ジャンヌ・ダルク伝説...